文芸賞 受賞作品

文芸奨励賞

部門: 短編小説

表題: スプラッシュ

受賞者: 高岡郡佐川町 片岡 裕

 轟ガ崎の沈下橋から見る川は、 この時季にしては珍しいほどの水量を湛え勢い良く流れていた。 下流に目をやると高速艇に乗って上流に向かう冒険者のような気分になる。
 川岸近くの流れが白く透けて見えるのはこの雨が降り出す前の川原だったことを物語っている。 目を凝らすと水草ではなく陸生の植物が沈んで揺れているのだと分かる。 中央の流れは筋肉質で太く、 下流に向かう意思の強さを表している。 しかし、 大きな岩や河床の形状に左右されて思うように流れることのできないジレンマが、 幾重にも重なりながら現れては消えてゆく渦となっている。
 流れの先には右にカーブした後の白く靄った急流が見えた。 その手前が一番瀬だ。 一気に駆け下がる瀬は中央の亀石で二つの流れになる。 が、 今日はあの亀石が水没して隠れ岩になっている。 要注意だ。 不用意に乗り上げてしまったらそのままスルーできるかどうか自信がない。 おそらくその先には落ち込みができているだろう。 駆け下がった後のコーナーは普段のように流れに乗せて通過できるか不安だ。 左岸の岩場に捉まったら大変だ。 流れは冬場の二倍くらいの速さに感じられる。
 二番瀬は落差が少ないので視認できる岩が幾つか残っている。 緩やかに左カーブして難関の三番瀬、 隠れ岩が連続する通称ウォッシュボードだ。 ここからでは確認できない。 ちょうど道路からも見えない位置にある。
 ここまで車で送ってくれたカヌー館の芝さんも今日は未確認とのことだった。 この水量でここからインする猛者はそうはいないだろうと言っていた。 もう一本下流の黒瀬の沈下橋からが安全だぞと念を押された。 ワイルドウォーター県代表を目指しているお前のことだから止めても無駄だなと笑っていた。
 もう一度、 一番瀬の攻略方法をイメージしながら下流を見ていると、 いきなり橋の下から真っ赤な艇が視界に飛び込んできた。 そのカヤックは全長二メートルほどの短さに見えた。
 フリースタイルのリバーカヤックだ。
 メインストリーム (本流) をしっかり捉え、 さらに加速させている。 亀石目がけてまっしぐらだ。
 思わず息を呑んだ。 亀石のちょうど真上あたりで真っ赤な艇はターンした。
 沈するぞ
 身構えた瞬間、 亀石の向こう側に沈んで見えなくなった艇がバウ (船首) から飛び出してきた。 白い飛沫の上をさらにパドリングしながらコーナーへ突っ込んでいった。
 キャッホオ~
 空耳かと思ったが、 確かに聞こえた。 あれは歓喜の雄叫びだ。
 見事にコーナーをクリアした艇は流れよりも先に進んでいた。
 足下を見ると、 流れが緩やかになった気がした。
 行こう
 橋のたもとに待たせておいた父から譲り受けた年代物のカヤック 「ダンサー」 とパドルを持つと、 水没した草の上から乗り込んだ。 今日は嫌いなスプレーカバー (水よけ) も装着する。
 メインストリームを外して流れを選び、 できるだけ上流に出た。 バウを下流に向け沈下橋を見た。 さっきの真っ赤な艇のラインが透けて見えた。 ストリームインだ。
 あっという間に予定の桁下を通過すると、 視界に水没した亀石の大きなうねりが入ってきた。 真っ赤な艇のターンする様が脳裏を掠めた。
 やめておけ
 父の声が聞こえた気がした。 いや、 自分の意思だった。 いつもとは逆に亀石の右手にラインを合わせ一気に漕いだ。 バウは亀石の落ち込みに向かって吸い寄せられた。 パドルを艇の右手に思い切り突っ込む。 ラダー (修正舵) で抜けようとしたが艇は戻らない。 諦めてスウィープし (パドルを寝かせ) た。 沈だけは避けなければ。
 浅瀬側からコーナーに入ると船底は断続的に突き上げを食らった。 平常心でメインストリームを捉まえ、 ピッチを上げた。
 危なかった。 かなりのタイムロスだ。
 振り返っている余裕はない。 二番瀬はいつも通りのライン取りで問題はないはずだ。 だが、 三番瀬が分からない。
 幅広の長い瀬だが出口は狭い。 瀬を抜けると大岩の続くホワイトウォーターだ。 最後は一メートルほどの落差を生み出す二枚岩がコース上に鎮座する。 両側とも川幅は狭く落ち込んでいる。 最もライン取りに悩まされる場所だ。 この増水でどう変化しているのか、 行ってみなければ分からない。
 そんなことを考えているうちに二番瀬は終わっていた。
 いつもならメインストリームを外さず漕ぎ切るのだが、 ウォッシュボードの後が危険だ。 岩壁側では不規則な渦が巻いているだろう。 水面下はかなり抉られていて、 巻き込まれたら脱出困難な流れが発生していることも予測できる。
 考えているうちに、 すでに三番瀬に差しかかっていた。 艇は川岸側からメインストリームに入った。 体がそう反応したのだ。
 沈だけはするな。 時間の無駄だ。 ワイルドウォーターに挑戦するならなおさらだ。
 父は沈した際、 脱出せずパドルを使って起き上がるロールを嫌った。 沈は危険だとも言った。 瀬で沈することなど考えるな。 なんとしてでも我慢しろ。 常に言われていたことだ。    
 確かに隠れ石のある瀬や岩場で沈することなど真っ平御免だ。
 一気に駆け下りる。 流れはコーナーで集約され巨大なメインストリームを生み出す。
 気持ちを切り替える間もなく目前に切り立った崖が迫ってきた。 渾身の力を込めたストロークでその巨大な流れに真っ直ぐ乗り込んだ。 バウが何度も崖側に持っていかれる。 いつもと同じ川とは思えなかった。 初めて怖いと思った。 水面の膨らみは平時を優に一メートルは超えていた。
 バウが崖に触れたかと思うや否や、 ダンサーが傾いた。 咄嗟にスウィープでリバースして立て直し、 ちょうど差しかかった屏風岩の陰に回り込んだ。 増水にもかかわらず一時避難するだけのエディ (穏やかな逆流の渦) は保たれていた。
 三番瀬を抜け切るためには最後の二枚岩をどう攻略するかだ。
 二枚岩の上は平らなので通過は容易(たやす)いが、 その先は激しい落ち込みになっているだろう。 バウが突っ込んだら必ず飲み込まれる。 かと言ってメインストリームを捉え損ねても沈だ。 二枚岩のサイドを狙って入ったら、 落ち込みに向かって強力な引き波があるだろう。
 真っ向勝負だ。 二枚岩を漕ぎ抜けよう。
 バウが突っ込まないよう、 後傾姿勢でスターン (船尾) を押し下げる。 だが、 三メートル超のダンサーをコントロールできるだろうか。
 ストリームインのタイミングを計りながら、 どの波どの流れも一つとして同じものがないことを実感した。
 一期一会を楽しもう。
 決意したことを頭は理解していなかった。 体が波に反応した。
 今だ!漕ぎ入れた瞬間、 バウを持っていかれた。
 艇はやや左にブレてバウをもたげた。 右サイドをできるだけ流れの深部に向かって漕いだ。 自分が艇から上空に向かって脱出するような錯覚を覚えた。 ブレードは流れをつかめず、 無数の飛沫を漕いで進んだ。 右に傾こうとする艇を、 腰をひねってねじふせた。  
「パドリング!」
 すぐ後ろにその声は聞こえた。 フルパワーで漕ぎ抜け瀞場に出た僕は、 やっと艇を回転させて後ろを見た。
 真っ赤な艇の彼女は凛々しく笑っていた。
「さっきはすみませんでした。 誰も来ないと思って」
 彼女は艇を止める素振りも見せなかった。
「ほんと、 危なかったわよ」
 彼女は、 二番瀬の後どこかで休んでいたのだろう。 全く気付かなかった。
 僕には冷静な判断ができなくなるほどに難しい流れだった。 真っ赤な艇のことは亀石通過の時点ですでに忘れていたのだ。
 僕を追い越してゆく彼女が振り返った。
「メンタルもスキルの一部よ。 もっとやれるわよ。 あなたなら」
「ありがとうございます」 と返すと、 彼女は瀞場で突然バウを直立させ、 その場で一回転、 二回転、 三回転した。
 それは、 僕には 「またね」 の挨拶に思えた。
 後ろから見させてもらっていいですかと心の中でつぶやくと、 僕はパドリングを始めた。  
 いつかワイルドウォーターの代表になるという思いがさらに大きくなった。
 彼女の航跡が微かに残る水面を静かに漕ぎ出すと、 辺りはまるで初めての川下りのような輝きに包まれた。