文芸賞 受賞作品

文芸奨励賞

部門: 短編小説

表題: 遅 刻

受賞者: 高知市 藤内直仁

  『少し遅れるかもしれない』 とメールが入っていたが、 それは僕への謝罪や謙遜ではなく、 単に遅れることに対する承認を求めていたにすぎなかった。
 案の定、 約束の時間を三十分過ぎても彼女は現れなかった。 それなら最初から待ち合わせの時間を三十分遅くすればいいのにと言ったこともあったが、 彼女はうんと言わなかった。 それは彼女なりのプライドか、 はたまた僕に対する思いやりに似た罪悪感がそうさせたのかもしれない。 おかげで僕は彼女との待ち合わせのたびに文庫本をポケットに忍ばせて出かけるクセがついた。
 やはり平日の夜は忙しかったかな。 いやどうせ週末でもいっしょだろう。 アルゼンチンの債務不履行の情報が発表されたり、 中東のどこかの国でデモが起きるたびに彼女の仕事は長引いた。 それが世界のマーケットや日本の経済にどれくらい影響したかはわからないが、 僕たちの待ち合わせに与えた影響に比べたらはるかに小さかっただろう。 これまでキャンセルしたレストランの予約は数知れないし、 たまにはウチごはんで、 と僕が作っておいた夕飯がムダになった回数はもう思い出せないくらいだ。
 それはともかく、 僕は予約した店の入り口が見える交差点へと立ち位置を変えた。 携帯の画面を見てみるが、 彼女からの着信はない。 待つことには慣れた。 ただあまりに遅いと来る途中で何かあったのではないかと心配になる。 こちらから掛けてみようとも思うが、 それも何か遅れたことを責めているようで、 しないことにしている。 連絡もできないくらいあわててこっちに向かっているんだろう。 そう思うことにして何年も過ぎた。
 それにしても最後くらい遅刻するなよな。 そう言うなよ、 最後くらい許してあげればいいじゃないか。 そんな言葉を反すうしながら交差点を照らす外灯の明かりをたよりに文庫本の頁をめくっていると、 八十七頁を過ぎた頃に、 ニア・ブラックのタイトスーツにオフホワイトのブラウス、 黒のプラダのバッグを肩から掛けて走ってくる女性を見つけた。
 彼女は店の入り口から二十メートルほどのところで走るのを止め、 息を整える。 そして服装の乱れを直してゆっくりと歩き出した。
 その姿を確かめて僕は文庫本をポケットに戻して店の入り口へと近づいた。 彼女は僕に気づき軽く手を挙げた。 僕もそこで初めて気がついたように手を挙げる。 彼女は歩を速めることなく、 ゆっくりと近づいてくる。
「ごめんなさい、 待たせちゃって」
 何十回聞いたやもしれぬ、 彼女が自分自身の魔法を解くいつもの呪文を僕に告げた。 その前の彼女の姿を見ていなければ、 ずっとゆっくり歩いてきたのかと思ってしまうだろう。 彼女はそういう性格だ。
「入ろうか」
 そう言って彼女のために僕は店のドアをゆっくりと開けた。 自分が選んだ店に堂々と入っていく彼女の後ろから店内に足を踏み入れた僕は正直少したじろいだ。 落ち着いた色調で統一された店内。 絨毯を敷つめたフロア。 奥のほうでは白いドレスを着た女性がグランドピアノでやわらかな音色を奏でている。
 若い店員に予約していたことを告げ遅れたことを詫びると、 彼は微かな笑みを浮かべて窓側近くの席に僕たちを案内した。 各テーブルにはキャンドルが置かれていて、 僕たちが席に着くと彼は慣れた動作で灯をつけた。
「食前酒はいかがいたしましょうか?」
 店員から重厚に装飾されたメニューを差し出され戸惑っている僕を察したのか、 彼女は
「私は最近凝ってる梅酒にするわ。 あなたはどうする?シェリー酒なんかもあるわよ」
と自分の好みを言って僕に助け舟を出した。
「もっとカジュアルな店でよかったのに」
「大丈夫。 ここ案外美味しいのよ」
 二人はかみ合わない会話のまま、 ぎこちない笑顔を交わした。
「あ、 これ」
 彼女は隣りの席に置いていたプラダのバッグから丁寧に白色の封筒を取り出した。 僕は慎重にその封筒を受け取った。 たった一枚の紙切れが入っているだけなのに、 ずいぶん重く感じた。 ただそれは僕がそう思いたかっただけかもしれない。 僕らの三年間の結婚生活を正式に終わらせることができる唯一の紙切れだったから。 その紙切れのせいか、 彼女の表情がいつもより冴えない気がした。
「仕事はどう?何かトラブルでもあった?」
学生時代から数えると八年の付き合いだ。 彼女の表情からたいていのことは読み取れる。
「ううん、 まぁちょっとね」
 キャンドルの光が少し揺れて、 彼女の口元を微笑んで見せた。
 楽な仕事などない。 きっと銀行で四六時中世界のマーケットを相手にしている彼女の仕事も、 毎朝三時に起きて惣菜を作りスーパーや介護施設に配送している僕の仕事も、 苦労度合いではそんなに変らないのだろう。
 ただ苦労度合いは同じでも、 世間的な信用や報酬の違いはある。 もし僕と彼女の仕事が逆で、 サラリーも僕のほうが数倍多くて、 僕がいつも待ち合わせに遅れてきて、 彼女が時間をかけて作ってくれた夕飯を何度もムダにしてたら、 僕らの関係は今と違っていただろうか。 キャンドルの揺れる炎を見ながら僕はふとそんなことを考える。
「恋愛結婚のほうがやっぱりいいんだって」
二人は食前酒を互いの目の高さに掲げて乾杯し、 グラスを口に運んだ。
「相手を好きだった頃の思い出があるから、 だそうよ」
「誰?」
「母さん」
「お義母さんは、 確か……」
「お見合いよ。 だからあんたはまだいいほうだって。 何がいいんだかわかんないけど」
彼女の母も彼女が小さい頃に離婚していた。 彼女は食前酒を飲み干し、 ワインを頼んだ。
 こうなってから言うのもおかしな話だが、 二人が別れることに特別な理由があったわけではない。 彼女に恋人ができたわけでも、 僕がギャンブルにのめりこんだわけでもない。 仕事が時々午前様になったりする彼女と、 毎朝三時から起きなきゃいけない僕との生活のリズムが違いすぎたのかもしれない。
 こんなことを誰かに話したら 「夫婦なんてそんなものだ」 と笑い飛ばされるだろうが、 「ほんとうにこのまま二人で暮らす意味があるのだろうか」 という疑問は長い時間をかけて言葉にできない重さになった分、 二人の心のとても深いところに沈殿してしまった。
「ねぇ、 私との一番の想い出は?」
「……何だろう」
とっさに訊かれてすぐに答えられない僕に彼女はあきらめ顔で小さなため息をついた。
「そういえば」
「何?」
「初めてケンカして仲直りした時、 君をギュッと抱きしめたらとてもいい匂いがした」
彼女は視線を僕から外して少し下に向けた。
--私は素直じゃないから、 ケンカしても自分から謝れないこともあると思う。 心にギュッと言葉を仕舞いこんでしまうと思う。 だからそんな時はこの香水をつけていく。 この匂いに気付いたら私が心の中で、 ごめんなさい、 ごめんなさい、 ごめんなさいって一生懸命謝ってるんだと思って--  
--あの時、 そう言って彼女ははにかんだ。
「覚えててくれたんだ」
 彼女は背中を丸めてホッとした表情で笑った。 キャンドルのせいじゃなく、 確かに彼女は笑った。 ただキャンドルが少しだけ揺れた時、 彼女の瞳に光るものが見えた気がした。 僕はハッとして心の中でつぶやいた。
 もし次に結婚するなら、 そういう時に君の心にギュッとしまいこんだ言葉をひとつ残らず引き出してくれるヤツを見つけろよ。
 いやそんなことより、 毎朝三時に君を起こさないかとびくびくしながらベットから抜け出して、 マヌケな泥棒みたいにコソコソと仕事に行かなくてもいいヤツと出会うんだぞ。
 そう思いながら僕は懸命にナイフとフォークを動かして残りのフィレ肉を平らげた。

「じゃあ、 そろそろ」
「明日も早いんだよね。 遅くなってごめんなさい」
 彼女はゆっくりと頭を下げた。
 会計を済ませ、 僕はまた彼女のためにドアを開けた。
「ありがとう」
 軽く微笑んで、 彼女が僕の前を通り過ぎた。 その瞬間、 僕の中を強烈な何かが突き抜けた。
 何が起こったのかわからなかった。 突然何か強い衝撃が僕の中から沸きあがってきて、 僕はドアのところで立ちすくんでしまった。
「どうかした?」
 彼女は振り向いて僕に尋ねた。
 そう、 彼女が僕の前を通り過ぎた時、 あの時の香水の匂いが僕の嗅覚に突き刺さってきたのだ。 言葉に変換できない感情が僕の全身を襲った。
「大丈夫?」
 とても長い時間立ち止まっていた気がしたが、 彼女の言葉で魔法が解けた。
「……ああ、 もう大丈夫だ」
 なぜ気がつかなかったのか。 三年も、 いやそれ以上前から彼女のそばに居ながら。
「駅まで歩かない?」
「そうだね」
 彼女を見た。 もうニア・ブラックのスーツは背筋がピンと伸びている。 その姿を見て、 僕は初めて理解した。 そうか、 いつも遅刻していたのは僕のほうだったんだ、 と。

 僕たちは肩を並べて駅までの道を歩いた。